2013/05/30

日本の暦について

 太陰太陽暦は、月の満ち欠けのサイクルを1ヶ月間とし、そこに太陽の二十四節気を組み合わせることで作られる暦です。太古、バビロニアの暦は太陰太陽暦でした。新年は春分から、1ヶ月は新月の日から始まっていたのです。太陰月と太陽年の調整のために、19年間に7ヶ月の閏月を加えていました。つまり、19年間のうち、7年間は1年が13ヶ月になるのです。この19年7閏月が太陰太陽暦の大きな特徴です。
 日本書紀によれば、欽明天皇の時代に、百済から易、暦の二博士を迎え、そして推古天皇の時代(西暦604年)、甲子の年の正月朔から暦日を用いたと記されています。701年の大宝律令制定で、陰陽寮に暦博士が置かれます。元嘉暦の後、大えん暦、五紀暦、宣明暦が用いられますが、これらは漢暦と称されるものです。つまり中国で考え出された暦の作成方法で暦を作っていたのです。
 その後、安井算哲(渋川春海)が中国で使用されていた暦を改良した大和暦を作成、それが貞享暦です。これ以降、宝暦暦、寛政暦、天保暦は、日本人によって暦法の改良が行われました。
 なぜ暦の名称が違うのか。それは太陰太陽暦の算出に必要な天文計算方法が異なるからです。暦の作成には、春分、夏至、秋分、冬至を基点とする二十四節気の観測の他に、朔(新月)の時刻が重要でした。太陽の1年は、365日と約4分の1日であることはかなり古くから知られていたのですが、月の満ち欠けの周期を正しく計算するのはやっかいでした。計算された朔の時刻が正確であるかどうかを判定するのは難しく、そのため、日蝕や月蝕の時刻の予測から暦の精度を確かめる時代が長く続きました。
 日本では、明治5年に改暦が行われ、グレゴリオ暦が用いられることになりました。当時、西洋諸国の仲間入りをしようとしていた日本にとって、大きな意味を持つ改暦だったといえるでしょう。グレゴリオ暦が新暦と呼ばれたことに対し、それまで使われてきた天保暦(太陰太陽暦)は旧暦と呼ばれるようになります。しかし、日本文化では、推古天皇の時代から、太陰太陽暦が用いられてきました。二十四節気はもちろんのこと、暦注に至るまで、その意味を知ることにより、日本文化の本質を深く理解することができるでしょう。
(発信者、松倉達一朗は、「暦と占いの部屋」管理人です。「暦と占いの部屋」に掲載した内容をリンクシェア、あるいは同内容を再掲載する場合があります。)